高校物理では、水素原子のエネルギー準位 $E_n = -13.6/n^2$ eV とスペクトル系列(ライマン、バルマー、パッシェン)を公式として暗記します。
これらの公式は入試で頻出であり、スペクトルの計算に十分です。
大学物理では、シュレーディンガー方程式を水素原子に適用することで、
$E_n = -13.6/n^2$ eV がボーアモデルの仮定ではなく方程式の解として導かれることを確認します。
さらに、主量子数 $n$ だけでなく、方位量子数 $l$ と磁気量子数 $m$ が登場し、
電子の軌道の「形」まで記述できるようになります。
この記事では、水素原子のシュレーディンガー方程式の概要を示し、
3つの量子数の意味を解説します。
s軌道やp軌道といった化学でおなじみの概念が、量子力学からどう導かれるかを理解できます。
高校物理では、水素原子のエネルギー準位とスペクトルを次のように学びます。
これらを使えば、水素原子が放出する光の波長を正しく計算できます。 しかし、高校の扱いには次のような限界があります。
ボーアモデルの結果がシュレーディンガー方程式から再導出されることを理解する。 エネルギー準位 $E_n = -13.6/n^2$ eV は、ボーアモデルの仮定ではなく、方程式の解として自然に出てきます。
3つの量子数 $(n, l, m)$ の意味が分かる。 主量子数 $n$ はエネルギーを、方位量子数 $l$ は軌道の形を、磁気量子数 $m$ は軌道の向きを決めます。
軌道の形と化学との接点を理解する。 s軌道やp軌道が量子力学からどう導かれるかを知ることで、化学で学ぶ電子配置の根拠が分かります。
水素原子では、電子が陽子のクーロン引力を受けて運動しています。 ポテンシャルエネルギーは次のように書けます。
$$V(r) = -\frac{e^2}{4\pi\varepsilon_0 r}$$
このポテンシャルの下でシュレーディンガー方程式を解く問題は、3次元であるため1次元の箱の問題より複雑です。 球対称なポテンシャル $V(r)$ に対応して、極座標 $(r, \theta, \phi)$ を使うと方程式が分離でき、 解が3つの量子数 $(n, l, m)$ で特徴づけられることが分かります。
方程式の解法の詳細は大学の量子力学の講義で扱いますが、 結果として得られるエネルギー準位は次の通りです。
$$E_n = -\frac{me^4}{2(4\pi\varepsilon_0)^2\hbar^2} \cdot \frac{1}{n^2} = -\frac{13.6}{n^2} \text{ eV}$$
エネルギー準位がボーアモデルと一致するのは、偶然ではありません。 水素原子(1電子系)では、ボーアモデルの量子条件が シュレーディンガー方程式の境界条件と本質的に同等の役割を果たすためです。
ただし、シュレーディンガー方程式はボーアモデルより多くの情報を与えます。 エネルギーだけでなく、電子の確率分布(波動関数の形)や、 エネルギーに影響しない追加の量子数($l$ と $m$)も決まります。
シュレーディンガー方程式を極座標で解くと、解が3つの量子数で分類されます。
主量子数 $n$:$n = 1, 2, 3, \ldots$
方位量子数 $l$:$l = 0, 1, 2, \ldots, n-1$
磁気量子数 $m$:$m = -l, -l+1, \ldots, 0, \ldots, l-1, l$
| 量子数 | 記号と範囲 | 決めるもの |
|---|---|---|
| 主量子数 | $n = 1, 2, 3, \ldots$ | エネルギー $E_n$(軌道の大きさ) |
| 方位量子数 | $l = 0, 1, \ldots, n-1$ | 軌道角運動量の大きさ $L = \sqrt{l(l+1)}\hbar$(軌道の形) |
| 磁気量子数 | $m = -l, \ldots, l$ | 軌道角運動量の $z$ 成分 $L_z = m\hbar$(軌道の向き) |
方位量子数 $l$ の値に応じて、軌道に名前がつけられています。 これは化学でも使われる重要な分類です。
| $l$ | 軌道名 | 形の特徴 |
|---|---|---|
| 0 | s軌道 | 球対称 |
| 1 | p軌道 | ダンベル型(8の字型) |
| 2 | d軌道 | より複雑な形状 |
| 3 | f軌道 | さらに複雑な形状 |
水素原子では、エネルギーは主量子数 $n$ のみで決まり、$l$ や $m$ には依存しません。 そのため、同じ $n$ でも $l$ や $m$ が異なる複数の状態が、すべて同じエネルギーを持ちます。 これを縮退(degeneracy)と呼びます。
例えば $n = 2$ では、$(l, m) = (0, 0), (1, -1), (1, 0), (1, 1)$ の4つの状態が同じエネルギーを持ちます。 一般に、$n$ のエネルギー準位には $n^2$ 個の状態が縮退しています。
ただし、多電子原子では電子間の反発により、$l$ が異なる軌道のエネルギーは異なります。 化学で「2s軌道は2p軌道よりエネルギーが低い」と学ぶのは、この効果のためです。
誤解:「s軌道やp軌道は電子が通る道筋を表す」
正確な理解:量子力学でいう「軌道」(orbital)は、 電子の存在確率の空間分布を表す波動関数のことです。 電子がその上を走る「道」ではなく、「電子をどの位置に見出す確率が高いか」を示す確率雲です。 ボーアモデルの「軌道」(orbit, 電子が回る円)とは異なる概念です。
シュレーディンガー方程式の結果を使えば、 高校で学んだスペクトル系列を統一的に理解できます。
水素原子が光を放出するのは、電子が高いエネルギー準位 $E_n$ から低い準位 $E_m$ に遷移するときです。 放出される光子のエネルギーは
$$hf = E_n - E_m = 13.6\left(\frac{1}{m^2} - \frac{1}{n^2}\right) \text{ eV}$$
遷移先の準位 $m$ の値によって、スペクトル系列が分類されます。
| 系列名 | 遷移先 $m$ | 遷移元 $n$ | 波長領域 |
|---|---|---|---|
| ライマン系列 | $m = 1$ | $n = 2, 3, 4, \ldots$ | 紫外線 |
| バルマー系列 | $m = 2$ | $n = 3, 4, 5, \ldots$ | 可視光〜紫外 |
| パッシェン系列 | $m = 3$ | $n = 4, 5, 6, \ldots$ | 赤外線 |
| ブラケット系列 | $m = 4$ | $n = 5, 6, 7, \ldots$ | 赤外線 |
これらのすべての系列が、たった1つの式 $E_n = -13.6/n^2$ eV から導かれます。 歴史的には、バルマー系列が最初に発見され、実験的な公式が作られました。 ボーアモデルおよびシュレーディンガー方程式は、これらの経験式を理論的に説明したのです。
ライマン、バルマー、パッシェンなどの系列は、高校では個別に暗記することが多い内容です。 しかし、シュレーディンガー方程式の解 $E_n = -13.6/n^2$ eV と振動数条件 $hf = E_n - E_m$ を組み合わせれば、 すべてのスペクトル系列が1つの式から導出されます。
これは大学の視点で物理を学ぶ利点の典型例です。 個別の事実を暗記する代わりに、1つの原理から多くの結果を導けるようになります。
シュレーディンガー方程式の解である波動関数の形を見てみましょう。 $|\psi|^2$ のグラフが、電子の存在確率の空間分布を表します。
最も単純な状態です。波動関数は
$$\psi_{1s}(r) = \frac{1}{\sqrt{\pi}a_0^{3/2}} e^{-r/a_0}$$
$|\psi_{1s}|^2$ は原子核($r = 0$)で最大であり、$r$ が大きくなるにつれて指数関数的に減少します。 角度依存性がなく、完全な球対称です。
電子を「見出す確率が最も高い半径」は $r = a_0$(ボーア半径)です。 ボーアモデルでの「基底状態の軌道半径」と一致しますが、 量子力学では電子は $r = a_0$ に固定されているのではなく、 確率的に分布しています。
$l = 1$ の軌道は角度依存性を持ち、ダンベル型(8の字型)の確率分布になります。 磁気量子数 $m$ の値($-1, 0, 1$)に応じて、ダンベルの向きが異なります。
化学で学ぶ電子配置(1s$^2$ 2s$^2$ 2p$^6$ ...)は、 量子力学の量子数 $(n, l, m)$ とパウリの排他原理に基づいています。 各軌道に電子が2個まで入れるのは、スピン量子数($\pm 1/2$)を考慮するためです。
p軌道のダンベル型の形は、化学結合の方向性(共有結合の角度など)を決める重要な要因です。 なぜ水分子 H$_2$O が直線ではなく折れ曲がった形になるのか、 その答えの出発点がここにあります。
水素原子のエネルギー準位は、原子物理の集大成であり、化学への橋渡しでもあります。
Q1. $n = 3$ のエネルギー準位において、方位量子数 $l$ が取りうる値をすべて挙げてください。
Q2. s軌道とp軌道の形の違いを述べてください。
Q3. 水素原子の「縮退」とは何ですか。
Q4. ボーアモデルとシュレーディンガー方程式で得られるエネルギー準位は同じですか。では、何が異なりますか。
水素原子のエネルギー準位と量子数の理解を確認しましょう。
$n = 4$ のエネルギー準位について、次の問いに答えよ。
(1) $l$ が取りうる値をすべて挙げよ。
(2) $l = 2$ のとき、$m$ が取りうる値をすべて挙げよ。
(3) $n = 4$ の準位にある状態の総数を求めよ(スピンは考えない)。
(1) $l = 0, 1, 2, 3$
(2) $m = -2, -1, 0, 1, 2$
(3) 16個
(1) $l$ は $0$ から $n - 1 = 3$ までの整数。
(2) $m$ は $-l$ から $l$ まで。$l = 2$ なら $m = -2, -1, 0, 1, 2$ の5個。
(3) 各 $l$ に対して $m$ は $2l + 1$ 個。$l = 0$: 1個、$l = 1$: 3個、$l = 2$: 5個、$l = 3$: 7個。合計 $1 + 3 + 5 + 7 = 16 = n^2$ 個。
水素原子のライマン系列($m = 1$ への遷移)について、次の問いに答えよ。$R_H = 1.097 \times 10^7$ m$^{-1}$ とする。
(1) ライマン系列で最も長い波長の光はどの遷移に対応するか。その波長を求めよ。
(2) ライマン系列の系列限界(最も短い波長の光)の波長を求めよ。
(3) ライマン系列が紫外線領域に属する理由を説明せよ。
(1) $n = 2 \to n = 1$。$\lambda = 121.5$ nm
(2) $\lambda = 91.2$ nm
(3) 基底状態 $n = 1$ のエネルギーが $-13.6$ eV と深いため、遷移エネルギーが大きく、対応する光の波長が短くなり、すべて紫外線領域(400 nm以下)に入るため。
(1) 最も長い波長 = 最もエネルギーが小さい遷移 = $n = 2 \to 1$
$\dfrac{1}{\lambda} = R_H\left(1 - \dfrac{1}{4}\right) = \dfrac{3}{4}R_H = \dfrac{3}{4} \times 1.097 \times 10^7 = 8.23 \times 10^6$ m$^{-1}$
$\lambda = 1.215 \times 10^{-7}$ m $= 121.5$ nm
(2) 系列限界は $n = \infty \to 1$
$\dfrac{1}{\lambda} = R_H\left(1 - 0\right) = R_H = 1.097 \times 10^7$ m$^{-1}$
$\lambda = 9.12 \times 10^{-8}$ m $= 91.2$ nm
(3) ライマン系列の最も長い波長でも 121.5 nm であり、可視光(約 400〜700 nm)よりはるかに短い。$n = 1$ への遷移では最低でも $E_2 - E_1 = 10.2$ eV のエネルギーが放出されるため。
水素原子の量子力学的記述について、次の問いに答えよ。
(1) ボーアモデルでは電子は $n$ だけで特徴づけられる軌道上を回る。シュレーディンガー方程式では3つの量子数 $(n, l, m)$ が必要になる。追加の量子数 $l$ と $m$ はそれぞれ何を決定するか。
(2) 水素原子のエネルギーは $n$ だけで決まるが、多電子原子では $l$ によってもエネルギーが異なる。なぜか、定性的に説明せよ。
(3) 1s軌道($n = 1, l = 0$)で電子を見出す確率が最大になる半径はボーア半径 $a_0$ である。しかし、原子核の位置($r = 0$)で確率密度 $|\psi|^2$ は最大である。この2つの事実は矛盾しないことを説明せよ。
(1) $l$ は軌道角運動量の大きさ(軌道の形)を決定する。$m$ は軌道角運動量の $z$ 成分(軌道の空間的な向き)を決定する。
(2) 多電子原子では内殻の電子が原子核の電荷を遮蔽する。$l$ の値が小さい軌道ほど原子核の近くまで浸透するため、遮蔽の影響を受けにくく、より低いエネルギーを持つ。
(3) 確率密度 $|\psi|^2$ は単位体積あたりの確率であり、$r = 0$ で最大。しかし半径 $r$ での球殻の体積は $4\pi r^2 dr$ に比例し、$r = 0$ ではゼロ。「半径 $r$ に見出す確率」は $4\pi r^2 |\psi(r)|^2$ に比例する動径分布関数で評価すべきであり、これが最大になるのが $r = a_0$。
(1) $l$ は軌道角運動量 $L = \sqrt{l(l+1)}\hbar$ を決め、電子の確率分布の形状(球、ダンベルなど)に対応します。$m$ は $L_z = m\hbar$ を決め、確率分布の空間的な向きに対応します。
(2) 水素原子では電子が1個しかないため、$l$ によるエネルギーの違いがありません(縮退)。多電子原子では、s軌道の電子は原子核の近くに高い確率で存在するため(浸透効果)、他の電子による遮蔽の影響を受けにくく、実効的により強い核電荷を感じます。その結果、s軌道はp軌道よりエネルギーが低くなります。
(3) 確率密度 $|\psi(r)|^2$ は「ある1点で粒子を見出す確率」の密度です。$r = 0$ ではこの値が最大ですが、その周りの「空間の体積」は(球殻の面積 $4\pi r^2$ が)ゼロです。半径 $r$ の球殻内に電子を見出す確率は、動径分布関数 $P(r) = 4\pi r^2 |\psi(r)|^2$ で評価され、$P(0) = 0$ です。体積の増大と確率密度の減少の兼ね合いで $P(r)$ が最大になるのが $r = a_0$ です。