高校物理では、ボーアの量子条件 $2\pi r = n\lambda$ とエネルギー準位 $E_n = -13.6/n^2$ eV を公式として暗記します。
これらの公式は入試で頻出であり、水素原子のスペクトルを説明するのに十分です。
大学物理では、量子条件の意味を問い直します。
$2\pi r = n\lambda$ は「電子のド・ブロイ波が円軌道上で定常波を作る条件」として理解できます。
前の記事で学んだド・ブロイ波の考え方が、ここで直接つながります。
同時に、ボーアモデルの限界も明確にします。
このモデルは水素原子には適用できますが、ヘリウム以上の多電子原子には使えません。
その限界を超えるために必要なのが、次の記事で扱うシュレーディンガー方程式です。
高校物理では、ボーアの水素原子モデルを次のように学びます。
これらの公式は、水素原子のスペクトル線を正しく説明します。 しかし、高校の扱いには次のような課題があります。
大学物理では、ボーアモデルを「量子力学への歴史的な第一歩」として位置づけます。
量子条件の物理的意味が分かる。 $2\pi r = n\lambda$ は「電子のド・ブロイ波が円軌道上で定常波になる条件」です。 波が1周して戻ったときに位相がずれると打ち消し合うため、波長の整数倍でなければなりません。
$E_n = -13.6/n^2$ eV を自分で導出できる。 クーロン力による円運動と量子条件を組み合わせて、エネルギー準位を計算する過程を体験します。
ボーアモデルの成功と限界を理解できる。 水素原子には有効だが、多電子原子には適用できないという限界が、なぜ生じるのかを理解します。
ボーアは1913年に、水素原子について次の3つの仮定を置きました。
電子は原子核の周りの特定の軌道上を回っているとき、電磁波を放出しない。 この安定な状態を定常状態と呼びます。
古典電磁気学では、加速度運動する電荷は電磁波を放出します。 円運動する電子は常に向心加速度を持つので、古典論ではエネルギーを失い続けて原子核に落ち込むはずです。 ボーアは、この古典論の予言を否定し、安定な軌道が存在すると仮定しました。
$$2\pi r = n\lambda = n\frac{h}{mv} \qquad (n = 1, 2, 3, \ldots)$$
この条件の物理的意味を考えましょう。 電子のド・ブロイ波が円軌道に沿って伝播するとき、 1周回って戻ってきたときに波の位相が元と一致しなければ、干渉によって打ち消し合います。 位相が一致する条件、すなわち定常波が形成される条件が、周長 = 波長の整数倍です。
弦の定常波では、弦の長さが半波長の整数倍のとき定常波が立ちます。 同じ論理で、円軌道上のド・ブロイ波では、円周がちょうど波長の整数倍のとき定常波が立ちます。
$2\pi r = n\lambda$ は、円軌道上に $n$ 個の波がぴったり収まる条件です。 $n = 1$ なら波が1つ、$n = 2$ なら波が2つ、...という具合です。
$$hf = E_n - E_m \qquad (n > m)$$
この仮定は光子のエネルギー $E = hf$(プランクの関係式)とエネルギー保存則の組み合わせです。
ボーアの仮定を使って、水素原子の電子軌道の半径を導出します。
水素原子では、電子(電荷 $-e$)が陽子(電荷 $+e$)の周りを円運動しています。 クーロン引力が向心力となるので、
$$\frac{e^2}{4\pi\varepsilon_0 r^2} = \frac{mv^2}{r}$$
整理すると、
$$mv^2 = \frac{e^2}{4\pi\varepsilon_0 r} \quad \cdots (*)$$
量子条件 $2\pi r = nh/(mv)$ を $mv$ について解くと、
$$mv = \frac{nh}{2\pi r} = \frac{n\hbar}{r}$$
ここで $\hbar = h/(2\pi)$ はディラック定数(換算プランク定数)です。
$mv = n\hbar / r$ を $(*)$ に代入します。
$mv^2 = mv \cdot v = \dfrac{n\hbar}{r} \cdot v = \dfrac{e^2}{4\pi\varepsilon_0 r}$
一方 $v = n\hbar/(mr)$ なので、
$\dfrac{n\hbar}{r} \cdot \dfrac{n\hbar}{mr} = \dfrac{n^2\hbar^2}{mr^2} = \dfrac{e^2}{4\pi\varepsilon_0 r}$
$r$ について解くと、
$$r_n = \frac{4\pi\varepsilon_0 \hbar^2}{me^2} \cdot n^2 = a_0 n^2$$
$$r_n = a_0 n^2$$
$$a_0 = \frac{4\pi\varepsilon_0 \hbar^2}{me^2} = 5.29 \times 10^{-11} \text{ m} \approx 0.53 \text{ \AA}$$
誤解:「電子は惑星のように原子核の周りを円軌道で回っている」
正確な理解:ボーアモデルは歴史的に重要なモデルですが、電子の実際の振る舞いは「軌道」ではなく「波動関数」で記述されます。 電子が「どこにいるか」ではなく「どの位置に見出される確率が高いか」が物理的に意味のある量です。
ボーアモデルの軌道は、次の記事で学ぶシュレーディンガー方程式の解の近似的な描像だと考えてください。
軌道半径が求まったので、各軌道でのエネルギーを計算します。
電子のエネルギーは、運動エネルギー $K$ とクーロンポテンシャルエネルギー $U$ の和です。
$$E = K + U = \frac{1}{2}mv^2 - \frac{e^2}{4\pi\varepsilon_0 r}$$
先ほどの円運動の条件 $(*)$ より $\frac{1}{2}mv^2 = \frac{e^2}{8\pi\varepsilon_0 r}$ なので、
$E = \dfrac{e^2}{8\pi\varepsilon_0 r} - \dfrac{e^2}{4\pi\varepsilon_0 r} = -\dfrac{e^2}{8\pi\varepsilon_0 r}$
$r_n = a_0 n^2$ を代入すると、
$$E_n = -\frac{e^2}{8\pi\varepsilon_0 a_0} \cdot \frac{1}{n^2}$$
各物理定数を代入して計算すると、
$$E_n = -\frac{13.6}{n^2} \text{ eV}$$
$$E_n = -\frac{13.6}{n^2} \text{ eV} \qquad (n = 1, 2, 3, \ldots)$$
エネルギーが連続ではなく飛び飛びの値しか取れないのは、量子条件 $2\pi r = n\lambda$ のためです。 軌道半径が $r_n = a_0 n^2$ と離散的な値に制限されるので、 エネルギーも $E_n = -13.6/n^2$ eV と離散的になります。
言い換えると、電子のド・ブロイ波が定常波を作れる条件が、 エネルギーの量子化(飛び飛びの値になること)を引き起こしています。
$E_n < 0$ は、電子が原子核に束縛されていることを意味します。 ポテンシャルエネルギーの基準を「電子が無限遠にあるとき $U = 0$」と取っているため、 束縛状態ではエネルギーが負になります。
$E_1 = -13.6$ eV は、水素原子のイオン化エネルギーが 13.6 eV であることを意味します。 基底状態の電子を無限遠($E = 0$)まで引き離すのに 13.6 eV のエネルギーが必要です。
振動数条件 $hf = E_n - E_m$ とエネルギー準位 $E_n = -13.6/n^2$ eV を組み合わせると、 水素原子が放出する光の波長を正確に計算できます。
$$\frac{1}{\lambda} = R_H\left(\frac{1}{m^2} - \frac{1}{n^2}\right)$$
ここで $R_H = 1.097 \times 10^7$ m$^{-1}$ はリュードベリ定数です。 この式は、実験で観測されるバルマー系列($m = 2$)、ライマン系列($m = 1$)、パッシェン系列($m = 3$)などのスペクトル線をすべて正確に再現します。
ボーアモデルには、次のような根本的な限界があります。
ボーアモデルは、古典力学で説明できなかった原子の安定性を初めて説明したモデルです。 「エネルギーが飛び飛びの値を取る」という量子力学の核心的なアイデアを最初に原子に適用しました。
現代の量子力学(シュレーディンガー方程式)の視点からは、 ボーアモデルは近似的・部分的に正しいモデルです。 水素原子のエネルギー準位 $E_n = -13.6/n^2$ eV は、 シュレーディンガー方程式を解いても同じ結果が得られます。 ただし、電子の「軌道」は「波動関数の確率分布」に置き換わります。
ボーアモデルは、量子力学の入口に位置するテーマです。
Q1. ボーアの量子条件 $2\pi r = n\lambda$ の物理的意味を述べてください。
Q2. ボーア半径 $a_0$ とは何ですか。その値はおよそいくらですか。
Q3. 水素原子のエネルギー準位が負の値を取るのはなぜですか。
Q4. ボーアモデルの最大の限界は何ですか。
ボーアモデルの計算と概念の理解を確認しましょう。
水素原子のエネルギー準位は $E_n = -13.6/n^2$ eV で与えられる。次の問いに答えよ。
(1) $n = 1$(基底状態)、$n = 2$、$n = 3$ のエネルギーをそれぞれ求めよ。
(2) $n = 3$ から $n = 2$ への遷移で放出される光子のエネルギーを eV 単位で求めよ。
(1) $E_1 = -13.6$ eV、$E_2 = -3.40$ eV、$E_3 = -1.51$ eV
(2) $1.89$ eV
(1) $E_1 = -13.6/1^2 = -13.6$ eV、$E_2 = -13.6/4 = -3.40$ eV、$E_3 = -13.6/9 = -1.51$ eV
(2) 放出される光子のエネルギーは $E_3 - E_2 = -1.51 - (-3.40) = 1.89$ eV。この遷移はバルマー系列に属し、赤色の光に対応します。
水素原子のボーアモデルにおいて、量子数 $n$ の軌道半径が $r_n = a_0 n^2$ となることを、クーロン力の円運動の条件と量子条件から導出せよ。
円運動の条件:$\dfrac{e^2}{4\pi\varepsilon_0 r^2} = \dfrac{mv^2}{r}$ より $mv^2 = \dfrac{e^2}{4\pi\varepsilon_0 r}$ ...(i)
量子条件:$2\pi r = n\lambda = \dfrac{nh}{mv}$ より $mv = \dfrac{n\hbar}{r}$ ...(ii)
(ii) を (i) に代入:$\dfrac{n^2\hbar^2}{mr^2} = \dfrac{e^2}{4\pi\varepsilon_0 r}$
$r$ について解いて $r_n = \dfrac{4\pi\varepsilon_0 \hbar^2}{me^2} \cdot n^2 = a_0 n^2$
(ii) から $v = n\hbar/(mr)$ を (i) の $mv^2 = m \cdot v^2$ に代入するのがポイントです。
$m \cdot \left(\dfrac{n\hbar}{mr}\right)^2 = \dfrac{n^2\hbar^2}{mr^2}$
これが $\dfrac{e^2}{4\pi\varepsilon_0 r}$ に等しいので、$r$ は $n^2$ に比例する式で求まります。
水素原子のスペクトル系列について、次の問いに答えよ。
(1) バルマー系列($m = 2$)の中で最も波長の長い光と最も波長の短い光に対応する遷移を示し、それぞれの光子エネルギーを eV 単位で求めよ。
(2) ボーアモデルでは水素原子のスペクトルを正しく説明できるが、ヘリウム原子のスペクトルは説明できない。その理由を述べよ。
(1) 最も長い波長:$n = 3 \to n = 2$、$E = 1.89$ eV。最も短い波長:$n = \infty \to n = 2$(系列限界)、$E = 3.40$ eV。
(2) ヘリウム原子は電子を2個持つ。ボーアモデルでは電子間のクーロン反発を扱えないため、エネルギー準位を正しく計算できない。
(1) バルマー系列は $n \geq 3$ から $n = 2$ への遷移に対応します。エネルギー差が最小の遷移($n = 3 \to 2$)が最も長い波長に、エネルギー差が最大の遷移($n = \infty \to 2$)が最も短い波長(系列限界)に対応します。
$n = 3 \to 2$:$E = E_3 - E_2 = -1.51 - (-3.40) = 1.89$ eV
$n = \infty \to 2$:$E = E_\infty - E_2 = 0 - (-3.40) = 3.40$ eV
(2) 水素原子は電子1個と陽子1個からなり、クーロン力だけで円運動の方程式が閉じます。ヘリウムでは2個の電子が互いにクーロン反発するため、1つの電子の運動がもう1つの電子の位置に依存し、ボーアモデルの方法では解けません。この「多体問題」を扱うには、シュレーディンガー方程式と近似法(変分法など)が必要です。